ふとテレビを見ると、殺人事件の容疑者が捕まったというニュースが飛び込んできました。
その犯人の特徴は、以下のようなものであると報道されていました。

・40歳独身、実家暮らしの男性
・短大を退学後、仕事を転々とし現在は無職
・両親は離婚、母親は水商売
・友達はおらず、家に引きこもって毎日ネットゲームをしていた

これらの情報を見て、皆さんはどう感じるでしょうか?
「いかにもやりそうだな」と思いましたか?
なぜそう感じたのでしょうか?

私たち人間は、あらゆる物事を「カテゴリ化」する能力に長けています。
そしてカテゴリ化は、私たちの経験則に基づいて作られていきます。
今回は、そんな能力について述べてみたいと思います。

スイカは野菜?果物?

果物って何?と子どもに聞かれたとき、皆さんはどう答えますか?
果物に共通する特徴って、どんなものが思い浮かぶでしょうか?

甘いもの?
丸いもの?
水々しいもの?

小学生の頃、友達に「スイカって果物じゃなくて野菜なんやで」と言われて、衝撃を受けたのを覚えています。

実際、スイカを調べて見ると「野菜にも果物にも当てはまる」というような記事がたくさん出てきますし、スイカだけでなくいちごだって野菜と言われることがあります。
(農林水産省の基準では「野菜」と定められているんだそう)

「野菜」や「果物」は、それを定義する線引きが曖昧で、どういう視点で見るかによってカテゴリが変わってしまったりもします。

では、もしお店で頼んだ野菜炒めの中に、スイカやイチゴが入っていたらどうでしょう?
「スイカは野菜」と自信満々に答えていた友人も、恐らく険しい顔になるでしょう。

つまり、基準は曖昧でも、私たちの多くは「スイカもイチゴも果物」という感覚を持っているといえます。

では、私たちが持っている「果物」という感覚は、どのようにして得ていったのでしょうか?

幼少期に「この中に果物はありますか?」という感じで学習していったものもあるかと思いますが、全ての果物において1個1個漏れなく勉強を通じて学んだ、という感覚はないと思います。

つまり、多くの果物は ”なんとなく” の感覚で当てはめていったものであると思われます。
では、このカテゴリ化、分類は、どのようにして行われるのでしょうか?

プロトタイプを作る

定義が曖昧なものを感覚的にカテゴリ分けするとき、私たちは「プロトタイプとの比較照合」を行っているという説が、研究者の中で唱えられています。

簡単に言うと、「果物」というカテゴリにあるものをいくつか学習することで、それらの特徴を抽出した「それっぽいもの」と比較して、類似度を見ているというのです。

これにより、私たちは見たことも聞いたこともない食べ物を出されても、「果物っぽい」「果物じゃないっぽい」というのを、感覚的に判断することができます。
もちろん、それが100%当たるわけはありませんが、瞬時の判断としては高い正確性を誇るでしょう。

そして、このプロトタイプはひとつだけではなく、複数作り出されることもあります。色、形、味、見た目など、あらゆる視点から偏りないサンプルを蓄積するほど、プロトタイプの質は高まると言えます。

代表性ヒューリスティック

典型的なイメージにもとづいて判断を行う思考は「代表性ヒューリスティック」と呼ばれます。
これまでの知識や情報から代表例を作り出し、それをもとに判断するということです。

例えば「韓国人」のイメージを聞かれた時、普段韓国人と触れ合っていない人は、テレビや本といったメディアを通じたイメージが作り出されやすくなります。

ある人は「K-POP」のアイドルを、ある人は「反日デモ」をしている民衆を、ある人は「韓国ドラマ」の俳優を思い浮かべるでしょう。

しかし、テレビで見る情報というのは、平均よりも極端なカテゴリを示すことの方が多いはずです。

日常を切り取るより、普段と違うものの方が報道として取り上げられやすいですし、テレビタレントは言わずもがな一般人とはかけ離れた容姿や生活をしていることが多いからです。

私たちは、あらゆる物事において、偏りないサンプルを獲得できるわけではありません。
人種、年齢、育ちや帰属先など、私たちは大抵偏りある情報の中で生活を送っているからです。

とくに、自分が普段触れていない物事について考えるとき、この偏りは大きくなり得ます。
それは結果として、偏ったプロトタイプを作り出すことに繋がってしまいます。

若くして一人暮らしを始めた人にとっての、40歳独身実家暮らし。
仕事に真面目に取り組んできた人にとっての、40歳無職。
家庭に恵まれた人にとっての、両親が離婚、母親は水商売という家庭。

カテゴリ分けをする能力は、私たちが物事を瞬時に判断するときに役立ちます。
しかし、それによって事実とのズレが生まれたり、思い込みに惑わされたりすることもあります

自分たち人間に備わった性質を理解し、正しくコントロールすること
意識をしなければ情報の偏りが生まれやすい現代だからこそ、この性質理解は必要な教養であるかもしれません。

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