とある論文で、「報酬系」と「自由意志」についての実験内容を目にした。その内容が、私たちの「幸福」についても考えさせられる内容であったため、ここにシェアしたい。
自由意志と快楽、そして未来志向。
私たちが物事を選択するときには、必ず何かの影響を受けている。
ネズミラジコンに自由意志はあるか
下記に示す実験結果は、「ネイチャー」誌に昔掲載された内容である。ここでは、動物愛護的な観点は一旦置いといて、結果が何を示すのか、についてみていきたい。
とある実験用ネズミの脳に、電極を刺す。
これは、電極に電気を流すとネズミの脳に直接「電気信号」を送れる仕組みになっている。簡単にいうと、ネズミに自由に命令が下せる「ネズミラジコン」を作れたという論文である。
「右に行け」という信号を送れば右に行き、「走れ」という信号を送ればネズミは走り出す。ざっくりとそういうイメージである。
実験では、ネズミがいる箱の中にボタンを用意する。
このボタンはネズミの頭に刺さった電極とつながっており、ボタンを押せばネズミの脳に刺激を与え、快楽物質がドバドバ出るという仕掛けがしてある。
ネズミはしばらくウロウロしていると、このボタンの存在に気づく。
そしてこのボタンを押せば、快楽が得られるということを学習する。
そのとき、果たしてネズミはどうなってしまうのだろうか?
快楽に溺れたネズミの行く末
このボタンを知ったネズミは、自分でひたすらボタンを押し続けた。
何十回という単位ではなく、自分が壊れるほどにボタンを押し続けたのだ。
中には、食事も取らずにボタンを押し続け、餓死してしまったネズミまで現れた。
ただただ、ボタンによって得られる快楽を求めて。
では、皆さんに問いたい。
このネズミには、自由意志はあっただろうか?
ボタンを押したのは、自らの意志である。そして「ボタンを押し続ける」という選択を取ったのも、自分の意志。ということは、このネズミは「自らの意志でボタンを押した」と解釈することができる。つまり、自由意志のもとにその選択をしたということだ。
しかし、この快楽マシンを作り、そこに誘導したのは人間である。
そこに誰かしらの手が加わった以上、それは自由意志ではなく「コントロール」ではないか?という解釈もできる。
自由意志についての考えや解釈はさまざまな論争がある。
皆さんは、これらの意見についてどう考えるだろうか?
快楽と、それ以外の喜び
世間を賑わすバズワードのひとつに、「メタバース」という言葉がある。皆さんのイメージするメタバースは恐らく、仮想環境に別の社会があって、そこで現実世界とは違った別のキャラクターで人生を楽しむ、というようなものだろう。
世界中でメタバースが一般化されるとすると、「現実世界は排泄と食事のみ行い、後はメタバース上でほとんどの時間を使う」という人が現れるだろうと言われている。
メタバース上では自分の先天的・後天的なコンプレックスを解決でき、好きなように生きることができるし、ただただ快楽を満たすような生き方もできる。
しかし、この「快楽を満たす生き方」について、先ほどの「自由意志」についての議論が私の頭をよぎった。果たして、それは幸せな生き方なのだろうか?
快楽マシンに身を委ね、そこから報酬系をひたすら浴びる毎日。 ”そのまま死ねればそれが幸せ”という考え方もひとつあるが、死ぬ前に自分の人生を振り返ったとき、それで良かったと心から言えるか?と問われると、私には疑問が残る。
人生を充実させるのは、何も快楽を満たすことだけではない。
人間は未来を想像し、創造して、次の世代に託す喜びも持ち合わせている。
快楽に身を委ねることの恐ろしさは、中々そこから抜け出すことができず、苦悩や葛藤の先にある喜びとは無縁の人生になってしまう可能性があることだ。
私たちが本当の意味での選択肢、自由意志を得るためには、「自己管理」の力を身につけ、快楽とそれ以外の喜びをバランス良くコントロールできることが大事であるように思う。
私たちは物事を選択するとき、必ず何かしらの影響を受けている。
そういう意味では、「自由意志」という存在自体がないとも考えられる。しかし、少なくとも自分の人生を死ぬまでの長期スパンで考え、「どのような生き方をしたいか」という視点を持つことで、「今と未来」の喜びを常に天秤にかけながら、ベストな選択ができるのではないかと私は考える。