「社会的意義があることをしていきたい」
「バカバカしい、くだらないことを楽しみたい」
私たちが何かを発信しようと思ったとき、相反する2つの感情があることに気が付いた。
「それら全てを、楽しみながら発信していくこと」
これは、発信軸として私たちが忘れないようにしたい価値観のひとつである。
人は、一方の自分を求めれば逆の自分がおろそかになる。
そしてだんだんと、見ないふりをするようになる。
まるで、そんな自分など初めから存在しなかったかのように。
人の心は変容である
「認知的不協和」という言葉を知っているだろうか。
「自分の考えと行動が矛盾したとき、行動に合わせて考えが変わる」という現象を説明した心理学用語である。これを証明する、信じがたいとある実験がある。
複数の男性に協力してもらい、2枚の女性の写真を見せる。そして、自分が好みだと思った写真を選び、伏せてもらう。
しばらくして、その写真をめくってもらい、質問をする。
「なぜその女性を選んだんですか?」
すると、男性はその女性を選んだ理由を話し始める。
実験では、この一連の中にとある仕掛けを入れている。「選んだ写真を、もう一方の写真とこっそり入れ替える」という仕掛けだ。もちろん、本人に気付かれないように。
普通なら、めくったときに「あれ?私が選んだ写真はこっちではないですよ」と気付かれそうなものだが、多くの被験者が、めくった写真を見ながらその写真を選んだ理由を話し始めた。
本人は写真がすり替えられたことに気付かず、あたかも”自分は初めからこの女性がいいと思い、写真を選んだんだ”と思い込んで、それらしい理由を述べたのだ。
心と行動
人は心と行動が矛盾したとき、大きなストレスを感じてしまうという。そのストレスから解放されるために心を変化させるというのが、アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された「認知的不協和理論」である。
なぜ心を変化させるかというと、起きてしまった行動は変えることができないから、心を変化させた方が都合がいいからだ、と考えられている。
このような「行動を正当化しようとする」思考は、日々の生活の中でも度々起きている。禁煙したいけどできない人が、”禁煙によるストレスの方が体に悪い”と思い込んだり、低賃金で働く人が”自分の成長のために働いているから問題ない”と思い込んだり。
あらゆる思い込みの中で生きる私たちは、矛盾する思考に気づかなくなる。その方が短期的なストレスから逃れられるから短期的にはメリットがあるが、長期的にみたときに、果たしてその状態は自分のためになっているんだろうか?
また、もし正当化しようとした自分が生まれたとして、その自分は偽りの自分なんだろうか?
もし、本当の心で生きることが正解であるなら、それを見極める術はあるのだろうか?
「社会的意義があることをしていきたい」
「バカバカしい、くだらないことを楽しみたい」
この両方は、どちらかが正しく、どちらかが偽りの心なんだろうか?
我々は、あらゆる矛盾する心も全て自分であると考え、無視しないようにしていきたいと思っている。これらの感情は確かに”いま心の中に存在している自分”だからだ。
「社会的意義のある発信をしたい」
「ユーモアあふれる発信をしたい」
「自分たち自身が発信を楽しみたい」
「人から感謝される媒体でありたい」
「多くの人に求められるコンテンツを作りたい」
心にある様々な感情に声を傾け、それら全ての自分を肯定できるように、私たちはあらゆる矛盾と向き合い、発信していく。
それが価値ある発信である、と信じて。