ニュースレターの記念すべき第1回目。
ということで、何について書こう?
と悩みに悩んだ末、最初は人の「記憶」について書いてみよう!という決断に至った。なぜこのテーマを扱うことにしたかというと、情報発信をする自分たちにとって、非常に重要なテーマだと感じたからだ。
みなさんは、1か月前に読んだ本がどんな内容だったか、覚えてはいるだろうか。
もっと記憶を近づけて、昨日食べた夜ご飯のメニューはどうだろう?
具体的にどんな具材が入っていて、何時ごろどこで誰と食べたか覚えているだろうか?
昨日のことすら曖昧になってしまう私たちの記憶は、ゆっくり時間をかけたり、ヒントをもらったりすることで呼び起こされることもしばしば。では、その呼び起こされた記憶は、果たしてどれくらい正しい記憶なのだろうか?
日々の生活の中で、私たちはさまざまな情報と触れ合っている。それらの情報には「自分の記憶が正しい」という前提があってこそ成り立つものも、往々にしてある。
そこで、ここでは「人の記憶がどれだけ曖昧で都合が良いのか」ということについて、実験科学を参考にしながら考えていきたいと思う。 自分が都合の良い解釈をしていないか、ということを、記憶を頼りに振り返りながら。
記憶の曖昧さ
とある研究室で、「2つのグループに同じ絵を見せても、伝え方を変えると記憶に違いは生まれるのか」ということを調べた。
見せた絵は、以下のような一本の線でつながれた2つの○、という単純な図。
Aグループには「このダンベルの絵を覚えておいてください」と伝え、
Bグループには「このメガネの絵を覚えておいてください」と伝える。
1か月後、「あのとき見せた絵を紙に描いてください」と伝えると、どうなったか。なんと、Aグループは真ん中の線を2つに、Bグループは真ん中の線を少しカーブさせて描いた人が多数現れた。そう、Aグループの人はダンベルっぽく、Bグループの人はメガネっぽく図を描いたのだ。
この実験結果は、私たちの記憶がそのとき付随した情報に影響を受けながら、都合よく捻じ曲げられてしまうということを意味している。人の記憶がいかに都合良く解釈されるか、について、もう少しわかりやすい実験を紹介する。
とあるグループに「アガサ・クリスティは生涯で何冊の長編小説を書いたか?」と質問をすると、回答の平均数値が51冊という結果になった。実際は66冊なので、まあ割と近しい数字になった、といったところだろうか。
そしてしばらく経ってから、同じグループに66冊という正解の数字を伝えたうえで「あのときあなたは何冊と答えましたか?」と尋ねた。すると、なんと回答の平均数値が63冊にまで増加してしまった。「あのとき正解はしなかったものの、そこそこ近い数字を言っていた気がする」という曖昧な記憶によって、記憶が都合よく書き換わったのだ。
記憶は積極的に再構築される
記憶というのは、PC内のフォルダのようにそのまま格納されているわけではなく、曖昧な保管と取り出しを繰り返しながら新しいものになっていく。そして思い出すたびに再構築を経て記憶される。そのようにして、私たちの記憶は都合の良い形に変化していくのだ。
なぜこのようなことが起きるのかというと、その方が生きるうえで都合が良いから、というのが現代科学の結論である。曖昧に記憶した方が、私たちが生きるうえで都合の良いことの方が多い。
具体的に、どう都合が良いのか?
曖昧に記憶することで生じる私たちのメリットはなんだろう?
逆に、デメリットとしてどのようなことが起きるだろう?
私たちは人として生まれた以上、鳥のように大空を飛ぶことはできないし、チーターのように100kmのスピードで走ることもできない。この身体で生まれたからこそできることがあるし、できないこともある。
だからこそ、自分に備わる身体の仕組みを理解することは大切だし、知ると面白いこともたくさんある。知ることで、対策も立てることができる。
記憶の曖昧さ、について気になった方は、ぜひ自分でも調べてみてほしい。
より良い人生を送るためのヒントが、そこには隠されているかもしれない。
今日のところは、このあたりで。