Danger is power of living


前回は明治維新以前の社会、近代社会、高度成長期の社会についてその特徴を整理し、「予測できる社会」から「予測がたたない社会」への変化を捉えてきた。今回も2004年に単行本が出た『希望格差社会』(山田 昌弘)から、現代社会において新たな段階になっていることを整理していきたい。

リスクを避ける道が閉ざされている社会状況

前近代社会

安全な領域は一部分でそこから一歩出れば危険に満ち溢れていた多くの人は伝統に従った変化のない生活を繰り返す以外になかった。

近代社会

外部の危険が縮小され安全な領域が広がった選択に伴う危険を避ける道が広範に存在していた。危ないところに近づくという選択肢を取らない取らなければだいたいどの選択肢を取っても安全な生活を送ることができた。

現代社会

その危険と安全の境界線が消失しつつある社会である。より危ない選択しより安全な選択肢はあっても絶対安全な選択肢はなく、リスクを取らざるを得ない状況それがリスクの変化なのである。

現在はリスクをとることを強要される社会である。今まで安全であると思われていた選択肢にもリスクが伴うようになることによって生じるものである。
高度成長期には貧しい人でも「意志」でもってリスクを避けることができた。
しかし現代ではリスクを避けるためには「意思」だけでは不十分で「お金」がいるようになった。

リスクの個人化

リスクに出会うのは自分の決定に基づいており、そのリスクは「誰の助けも期待せずに自分で処理する」ことが求められている。
・失業したらフリーターになるのは自分の能力の問題である
・離婚したのは離婚するような相手と結婚したからである
・保険会社が倒産した保険金がもらえないのは危ない社会会社を選んだ個人の責任である
というように保険というリスクヘッジに伴うリスクの責任までも取らされるのである。

リスクが避けられないものとなると同時に個人はそのリスクをヘッジすることそして生じたリスクに対処することを個人で行わなくてはならない時代になっている。そのリスクに対処しなくていけない個人の間に差がついているのが近代の傾向である。

運で生きている人間の増大

人々の社会意識

リスクが変化しリスクヘッジやリスク処理に対しの責任が個人化すると、選択に対して自己責任を取らせる傾向が強まる社会になると、将来設計について戦略的に考える人々が増え社会が活性化するという仮説を立てることができる。一部の能力のある人間は勝ち組になる希望を持って将来のために努力を積み重ねるだろう。

「運頼み」の人間の出現

しかしリスク化が進み個人責任が強調されると想定した結果とは逆のことが起き始め始めている。リスクは誰にでも起こりうるが結果的に危険な状況に状態に陥らないで済むという可能性もある。そうなるとリスクに備えて事前に努力をしても無駄だということにつながる。
すると多くの人々はから希望が消滅しやる気は失われる。そして努力をせずにリスクに目を瞑り、現実から逃避して生きるという自分の人生自体をギャンブル化してしまう「運頼み」の人間を生み出す危険性がある。

リスクとは「勇気をもって試みる」


イタリア語のrisicareに由来、もともとは「勇気をもって試みる」という意味であるようだ。
・諦めているものを本当はどうしたいのか??
・無理と思うことだからこそ取り組むに値するのではないか?
・中途半端にやるよりがむしゃらに取り組んむことで得られるものがあるのではないか?

モハメド・アリ
リスクを取る勇気がなければ何も達成することがない人生になる

エウリピデス
臆病者は逃げ去るが、勇気のある者は、危険な選択をあえてする

ピーター・ドラッカー
リスクの有無を行動の基盤としてはならない

リスクを個人で対処しなければならない時代を生き抜くために「問いかけ」から「人生を自分で選択する」を強要された初めての人類同士、偉人達の言葉を借りながら、勇気をもって試みていきたい。

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