前回は、平成の時代における成長や所得の推移についてお伝えした。改革続きであった平成の政権の中でも「細川政権」について注目した。
今回も『平成経済20年史(紺谷典子)』より平成の日本経済を振り返りたい。
細川政権の後は羽田政権、村山政権、橋本政権と続く。
村山政権は1995年1月に発生した阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件などに見舞われたため回復に専念した2年半だった。
1996年1月に発足した橋本政権では6大改革が行われその中でも「財政構造改革」を最重要課題とした。橋本首相は大蔵大臣を務めた過去がある。
行政改革に着手した目的が官僚支配から脱却し政治主導で政策を進めていくことである。
議論の場となった行政改革会議は審議会方式が採用され、日本の行政システムの未来が非公開の議論で決まった。
審議会に選ばれたメンバーは2年の任期と最長3回の改選で最長8年務めることができる。
その中でも省庁の意向と異なる意見を持つものは、2年の任期満了でお役御免となる。
そのような便利なメンバーで構成されていたようだ。
行政改革会議は1997年12月に最終報告を提出し、それらは1月より施行された。
行政の透明化、簡素効率化などを図った省庁再編もその一つである。
省庁再編では1府21省庁が1府12省庁に削減され、省庁の数つまり大臣の数が減った。
各省庁の組み合わせは難しく再編によって結果巨大化された。
巨大化した省庁の管理のために大臣を補佐する人数を増やすなどをした。
省庁再編では「財政と金融の分離」に焦点があてられた。
大蔵省より金融行政の分離を図るものであり、銀行局と証券局を解体し金融監督庁に移された。
金融監督庁を新設する際は9割が大蔵省からの異動であった。
2000年に金融監督庁と大蔵省金融企画企画局が統合され金融庁ができる。実質的に大蔵省の傘下となった。
元の目的である分離は果たされることなく、その後金融庁の予算と人は増加を続けている。
国民が選んだ議員より国会は構成される。
政治主導であるならば国会で議論すべきであるところを、審議会という情報が封じられた中で議論があったことは政治不信に繋がったと感じる。
改革にもあるべき姿がありそれを実現する手段が選挙なのだということを改めて認識したい。