私たちを とりかこむ リスク
自分が現在いる場所がわからなくなり、目的地にたどり着くことができない状態のことを迷子という。『NEVER LOST AGAIN』地図アプリの登場で道に迷うこともなくなった。そのおかげで、「東京 天井高い カフェ」で調べたチルなカフェにも来ることができている。今回は「現在いる場所がわからなくなる」について、場所ではなく現在の社会について共に向き合うことができたら幸いである。
2004年に単行本が出た『希望格差社会』(山田 昌弘)から、日本の社会で起きている問題を「リスク化」と「二極化」という軸で考察された内容を整理していく。今回は「リスク化」のみを取り扱うがそれにより、現在を生きる私たちが経験してきたもしくは体感している現象の原因究明になると期待したい。また内容についても「その通りだ」と、「本当にそうか」と同時に2つの考えを0か100に当てはめるよりも「大枠としては当てはまるがその中でもこの分野は違うかもしれない」とグラデーションであることでより「考えることを愉しむ」をともに体験していきたい。2004年の予見であるが、現実化していることに心当たりがある内容が多いと感じている。

リスクとは「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

まずはリスクという言葉の定義から。この本では『危険が伴うことを知りながら、その危険に出会うかもしれない状況に身をさらして、何かを達成しようとするとき、その危険をリスク』という。その中で、生活リスクを『人並みの生活ができなくなる危険性』とし、以下のようなものを含めている。
  • 老後、期待する生活が送れない
  • 住む家もなくなるかもしれない
  • 今は年3回海外旅行に行けるのに、今後、1回しかできなくなるかもしれない
と、様々な生活水準における「人並みの生活」の概念について説明している。

外部リスクと内部リスク

外部リスクとは、地震、外敵の侵入、伝染病など、人間の選択によって生じるものではなく、外部からきて、降りかかるもののこと。明治維新以前の社会では、外的リスクは事前に心配しても仕方なく、お祈り、お祓い、多少の用心くらいしかできなかった。近代以降の日本社会では、外部リスクに対しては、科学的、社会的に人間がコントロールして対処することを目指しており、その主体として発達したのが「国民国家」である。洪水、台風などの天災に対しては、予報や事前の対策が講じられるようになった。外敵の襲来は原則としてなくなり、国際法のもとで行われる国民国家同士の「戦争」という形をとって、戦争はなくならないにしろ、戦争になるかどうかが予測できるようになった。
外的リスクをコントロールしようとする試み自体が、リスクを発生させるというパラドックスが生じることにある。自由で人生の選択が可能な社会とは、逆に、選択に伴う新たな危険に出会う可能性がある社会なのである。選択の結果、人並みの人生すらできなくなる可能性が生じる社会でもある。これを外部リスクと比較する意味で、内部リスクと呼ぶ。

生活リスクの時代変化

明治維新以前の社会

「人生を自分で選択する」という概念自身がなかった。
<職業>
親の跡を継ぐしかなかった。
<結婚・離婚>
自由に決めることができなかった。
<教育>
親元で家業の手伝いをしたり、奉公という形で一人前の大人になるための訓練が行われていた。伝統に従って生活していればどういう一生を送るか、予測ができた。伝統に反するものがでても共同体から放逐され、村八分状態になり不自由しても文句は言えなかった。反対に、伝統に従って生活をしていれば外部リスク以外の心配は無用であった。そして宗教や統治者を選ぶこともできなかった。

近代社会(明治維新から世界大戦終了)

近代社会はリスクとは切っても切れない関係にある。それは、近代社会が「自然との共存ではなく自然のコントロール」を、「伝統に従うのではなく伝統からの離脱」を基本的原理とする社会だからである。
<職業>
職業選択の自由が認められ、親の職を継ぐ必要はなくなる。選択の幅が広がり、だれでも自分で選んだ職に就く可能性が生じる。しかし、それは誰でも自分が選んだ職に就けるということを保証するものではない。職の方から選ばれない確率も高い。臨んだ職業に就けないリスク、そして、望んだ職業に就いたとしても生活できないリスク、全く職に就けないリスクと隣り合わせ。
<家族>
結婚相手に関する選択の自由が認められた。しかし、好きな人と結婚できる自由があったとしても、好きな人と結婚できる保証はない。自分がよくても相手にNOと言われるケースが出てくる。離婚も同様。結婚の自由化は結婚できないリスクを作り出し、離婚の自由化は相手から離婚されるリスクを作り出す。
<教育>
職業選択が原則自由になると、希望の職に就くための訓練が「別途」必要になる。また、職を提供する側から言えば、希望者を選別する基準が必要になる。仕事能力を見極める必要がある。近代の「学校教育システム」は職業に就くためのリスクを軽減するように発達した。企業や社会の側も学校を出ている若者の仕事能力を予測しやすい。若者は、仕事に就けないリスクを回避できている。

高度成長期(戦後から1990年頃)

外部リスクを大幅に削減していった時期で、選択に伴う内部リスクが小さいままに抑え込まれていた。

<職業>
戦後しばらくの間は、農業など自営業が多かったので、親の仕事を継ぐという選択肢もあった。企業社会の形成期にあり若者に対する労働需要は極めて強かった。学校を出れば学歴にあった就職先はいくらでもあった。年功序列で収入が上がる期待がもてた。
<結婚>
自分で相手を見つけることができなければ、見合いという手段が用意されていた。離婚は戦前に比べて少なく、結婚しさえすれば、一生続くことを前提として「高望み」や「冒険」という選択さえしなければ、安定した生活が約束された。倒産、失業、離婚などの事態は皆無ではなかったが、選択の結果というより「例外」つまり「運が悪い」と意識することができた。経済の高度成長期には「予測可能性が高い」社会が存在していた。
ここまで、明治維新以降の日本社会が『人生を自分で選択する』という概念が生まれて、期待する生活水準が見込めなくなるリスクが広がっている状況であることを、3つの時期の比較により認識することができた。
だいたいどういう一生を送るか予測できたが、学歴をつければ、大企業に入れば、結婚すれば大丈夫と言えなくなっている。予測できる社会から、不確実性(何が起こるか想像がつかない、予測がたたない状況)とリスク(ある程度計算が可能)のある社会への変化。
次回は、現代社会のリスクの特徴について整理していく。

参考:
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https://www.manavate.info/20170623214922/

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