世の中には、さまざまな教えや言い伝えがあります。

いったいどこから生まれて、どのようにして今に伝わってきたのか。
その発生源がわからないようなものも、しばしば。

私は、昔の言い伝えで「隣の三尺」という言葉が好きです。

「家の前の掃除や雪かきをするときは、隣の家も三尺分だけ余分に掃除をしなさい」

「隣の三尺」は、このような教えのことです。

三尺とは、おおよそ1mくらい。
つまり、「自分の家の前に加えて1mくらい余分に掃除をしなさい」ということです。

なぜ「三尺分」なのでしょうか。
この言葉には、どんな意味が含まれているのでしょうか。

この「三尺」という尺度に、人間関係を良好に保つ秘訣が隠されています。

隣の三尺

例えば、雪かきするときのことを想像してみてください。
隣の人が、測ったようにきっちりと自分の家の前だけ綺麗に整備していたとします。もちろん全然問題ないことなのですが、自分も同じように、自分の家の前だけ掃除をしようという気持ちになりますよね。

また、お互いの家の間には、どちらの家とも言えない境目が存在します。そこには、どんどん雪が溜まっていってしまうかもしれません。

人間関係というのは、このちょっとした溝というのが積み重なって、大きな溝になることもあります。お互いが「自分の領域」だけのことを考えた結果、境界線から溝ができていってしまうのです。

「だったら、隣の人の分まで掃除してあげればいいじゃん!」
そう思った方、すっとこどっこい。

親切心というのは、ときに「重荷」になってしまうということも忘れてはいけません。

もう一度、雪かきで考えてみましょう。
もし、隣の人の分まで掃除をしたとしましょう。次に雪が降ったとき、隣の人はどんな気持ちになるでしょうか。

「この前やってもらったから、今度は自分がやったほうがいいかな。」
もしかしたら、そう感じる人もいるかもしれません。

するといつしか「お互いの家の分も掃除する」ということが暗黙のルールとなり、もし相手の番のときに掃除がされていないと「あれ、やってないじゃん。前は自分の番だったのに。」と、謎のモヤモヤを抱えてしまう、なんてことも。

これは、慣習というか空気を読むというか、なんとも日本人らしい感覚ですが、親切心も「ルール」になってしまうと、ちょっと辛いものがあります。

日常生活でも、「いつの間にかルール化されていて、それを破られるとイラッとする」みたいな経験、皆さんもあるのではないでしょうか。
(私はエレベーターで横一列で止まっている人がいると、避けてくれないかなぁみたいなオーラをバンバンに出してしまいます。)

日本には暗黙のルールがたくさんありますが、それが個人レベルで発生していまうと、少々疲れてしまいます。

だからこそ、三尺なのです。

3尺分の親切心

三尺というのは、つまり「丁度いい」ということです。

親切心は、相手が重荷に感じてしまったり、自分が見返りを求めてしまうとどこかで歪みが生じます。もちろん、立場や状況によってさまざまなので一概には言えませんが、親切というのは見返りを求めた瞬間、それはgiveからtakeに変わります

「〇〇やってあげたんだから、あなたも〇〇して」
こんなことを強要されると、ちょっと辛いですよね。

日本人は、国民性的に直接口にする人は多くないかもしれませんが、心の中にそういったモヤモヤが生まれることは、皆さんも一度くらい心当たりがあるのではないでしょうか。

親切というのは、本来「自分がすることで満たされる」ものです。
そしてそれは受け手にとっても同じで、「されて満たされるもの」です。

「重荷に感じてしまう度合い」は人によってバラバラなので、ここを考えすぎる必要はないでしょうが、少なくとも「自分が与えて、それで完結」という感覚が、自分の中にあることが重要です。

よく、ビジネス書をみてると「giveの大切さ」を説いてますが、ものによっては「最終的に自分が大きな見返りを得るため」が前提のものも多くあります。

見返りを求めることが悪というわけではありませんが、「giveの精神」というのは与えて完結であることだと私は思います。

もちろん、「どんな場面でも絶対に見返りを求めない人」など殆どいません。だからこそ、自分にとって「どのレベルが見返りを求めてしまう親切か」を理解することは、心地よく生きるうえで大切だと思います。

見返りを求めない程度、重荷を与えない程度。

もしかすると、相手に気づかれないくらいでいいのかもしれません。

3尺分の、ちょうど良いgive。
Giveの精神で、今日も1日。

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