前回、「人の記憶がどれだけ曖昧か」ということを、実験科学を使って説明した。そして、人の記憶が曖昧な理由を「その方が私たちにとって都合が良いから」という結論を伝えた。
ここでは、
「なぜ都合が良いのか?」
「具体的にどう都合が良いのか?」
ということについて述べていきたい。
曖昧に記憶することは、人類がもたらした脳の進化である、ということについて。
曖昧に記憶することは、人類がもたらした脳の進化である、ということについて。
曖昧に記憶するメリット
人が曖昧に記憶するということは、何もデメリットばかりではない。それによって、私たちは大きな恩恵を受けている。
例えば、皆さんの友人に卒業アルバムを見せてもらったときのことを想像してみてほしい。そのとき、大抵の場合「どれが友人の写真か」探し出すことができるだろう。下に書いてある本人の名前を確認しなかったとしても、だ。
10年20年も経てば、シワが増えたり、髪型が変わったりもする。なのに、どうして私たちは”いま隣にいる友人と、卒業アルバムに映る人物は同じである”と判断することができるのだろうか?
その謎を解くカギが、「記憶の仕方」にある。
脳は物事を覚えるとき、情報をそのまま記憶するのではなく、ある特徴を抽出して記憶していると言われている。その結果、今目の前にいる人が、次の日別の服を着ていようがひどい寝癖がついていようが、”同じ人物だ”と判断することができている。
もしこれが写真のようにそのままの姿を記憶していたとしたら、次の日に会った時には”別の人である”と判断してしまう。例え全く同じ格好をしていたとしても、見る角度が違うだけでも”別人だ”と判断してしまうらしい。
つまり、100%完璧に記憶するということは、私たちにとって非常に効率が悪い。時が流れても同じものだと判断するには、物事や状況は変化していくという前提で記憶する必要がある、ということだ。
抽象化は人類の進化
共通のルールを見つけ出す、一般化することを「汎化」という。
もし私たちが「人の絵を描いてください」と言われたら、頭があって、手があって、手には5本の指がついていて、足があって ‥‥ という基本構造は同じだろう。
しかし、戦争で足を失った人を写真で見ても、ラグビーで耳が潰れた人を見ても、それが「人」であると判断することもできる。私たちは、無意識のうちにあらゆる人間的要素を抽出したものを頭の中にストックしており、一般化された人の体型から多少ズレた情報が訪れても、抽象的な記憶によって、それらが人という同じ種族であると判断することができる。
実はこの「抽象的に捉える力」というのは、鳥などの下等動物ほど弱いらしい。鳥は、人と比べて見たものを非常に正確なレベルで記憶する。
”正確に覚えられるって、羨ましいなぁ‥”と思うかもしれないが、記憶が曖昧であることで私たちは物事の共通項を見出したり、カテゴリに分けて分類したりといったメリットを享受できている。
記憶が曖昧なのは、脳の弱さではない。
人類が進化した結果享受できた、崇高な能力である、ということなのだ。
日常の共通項を探す
「ねぇあの人、〇〇に似てない?」
「え、どこが?全然似てないじゃん」
「え、どこが?全然似てないじゃん」
こんな会話を友人とすることが時々ある。
私は脳の曖昧さについて知ったとき、「人の顔を判断するときも、顔のどの特徴を抽出しているかは、人によって違うのではないか?」と感じるようになった。
そしてそれは人の顔だけではなく、生活のあらゆる場面で同じことが言えるだろう。
私たちは、経験を積んでいくと「あれ、◯◯って、××にも同じことが言えるんじゃないか?」という、共通の特徴を抽出して、別のものに応用する、ということができるようになる。
初めて回転寿司をやり始めた人は、部品を運ぶベルトコンベアーをヒントに思いついた、と言われている。効率的にモノを運ぶ、という特徴を抽出したとき、お寿司屋さんにも応用できると判断したことで、回転寿司は生まれたのだ。
今は当たり前のようになっているあらゆる事が、人がもつ「抽象的に捉える力」があってこそなんだ、ということがわかる。
私たちの周りには、共通の特徴をもった何かで溢れている。
応用することで、新しい何かが生まれる可能性を秘めたものもたくさんある。
応用することで、新しい何かが生まれる可能性を秘めたものもたくさんある。
「あの人って、◯◯に似てない?」
こう思ったとき、ぜひこの時の話を思い出してほしい。
皆さんが世の中に面白い商品やサービスを生み出すときには、必ずこの「抽象的に捉える力」が役立つはずだ。