徒然草の「高名の木登り」という話を知っていますか?

昔の文学作品には、現代にも活かせる本質的な学びが数多く存在します。
今回は、その中から兼好法師という方の作品を紹介します。

高名の木登り

【高名の木登り】

高名の木登りといひしをのこ、人を掟てて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。心して降りよ。」と言葉をかけはべりしを、「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。

いかにかく言ふぞ。」と申し侍りしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れはべれば、申さず。過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ。」と言ふ。

あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。
鞠も、難きところを蹴いだして後、やすく思へば、必ず落つとはべるやらん。

この話をざっくり要約すると、以下のような内容になります。

木登り名人が、弟子に木の枝を切ってもらっているときのこと。

高いところの枝を切り終わり、家の軒の高さくらいまで降りてきた弟子に対して名人が「気をつけて降りろ」と言いました。

高いところにいるときは何も言わなかったのに、なんで飛び降りても怪我しないくらいの高さになってから、そのようなことを言うのか。

不思議に思い、弟子が尋ねると「危ない高さにいるうちは、恐れから自分で気をつけるはず。降りるのが容易になったときにこそ、油断して怪我そしてしまうもの」だということで、声をかけたのだというお話。

昔話には、具体的な例を通じて現代にも教訓として学びになる作品がたくさんあります。
今回の話から、私たちはどのような学びを得ることができるでしょうか。

油断大敵

今回の話からは、まずシンプルに「油断したときこそ過ちを犯しやすい」ということを学ぶことができるでしょう。

わかりやすい例として、運転免許をとった1年目より、運転に慣れてきた2〜3年目の方が事故を起こしやすい、という話はよく耳にします。

ミスは、慣れてきて油断したときに起こりやすい。
そして、これは学習にも通ずるものがあると思いました。


皆さんにとって「十分な知識を得ている」と感じるものはありますか?

学びというのは、知識を身につけるほど「その知識が邪魔をしてしまう」ということも起こり得ます。

実は間違った解釈をしてしまっていたり、不十分な量で学んだ気になってしまっていたり。
時には、そのソースごと間違っていた、ということもしばしば。

例えば「ダイエット方法」なんかは、様々な方法や論説が飛び交っています。そのとき正としていたものが、あとあと「学術的に間違っている」ということだって起こり得るのが科学であり、常識です。

私たちは、自分が十分に学んでいると考えているものこそ、学びの罠に陥らないよう、注意を払う必要があるかもしれません。

「健全な懐疑心」を持ち、今ある知識を疑うことも、時には大切です。

学びは立場や身分によらない

さらに、この話にはもうひとつの教訓があります。
それは、兼好法師の学びの姿勢です。

この時代の「木登り名人」というのは、身分の低い立場の人であると言われています。
そんな身分の低い人の言葉にも兼好法師は耳を傾け、そこから学びを得ようとしている。
それが、代々まで続く聖人の教えとなっているのです。

このことから、「学びは地位の高い人から得る」ということだけではないということを、私たちは学ぶことができます。

学びのアンテナを張っていれば、どんな人からも、どんな機会からも学びを得ることができる。
学ぶ上で最も大事なことは、その謙虚な姿勢にあるのかもしれません。

おすすめの記事